水曜日, 8月 23, 2006

日本とポルトガル語

1543年(年代については諸説あり)、「鉄砲伝来」として記憶される種子島へのポルトガル人漂着という出来事が発生、ポルトガル人・ポルトガル語は、日本人が直接接した初のヨーロッパ人・ヨーロッパ言語となった。
以後、イエズス会によるキリシタン布教とマラッカ・マカオを相手とする南蛮貿易(主に近畿~九州地方)においてポルトガル人が主要な役割を果たしたので、この時代に日本にはいった文物とともにポルトガル語起源の語彙が日本語に定着した。以下がその例である。(ポルトガル語起源の日本語(ウィキペディア英語版)も参照のこと)
キリシタン関係 キリシタン デウス(※ラテン語も同形) バテレン イルマン クルス 日本人キリシタン名(小西行長の洗礼名アゴスティニョ、内藤如安、細川ガラシャ等)
衣服関係 合羽 襦袢 ボタン
食品・嗜好品 タバコ パン バッテラ 金平糖 ボーブラ(一部地域の方言で「カボチャ」)
その他 カルタ トタン ビードロ バンコ(一部地域の方言で「縁台」)
※16世紀末から、マニラ貿易およびフランシスコ会・ドミニコ会等の布教活動を通じてスペイン人・スペイン語との接触も密になり、かつこの両言語間では同源・同形の単語も多いので、いずれの起源か判別しがたい、または両者が混在している可能性が高い例もある。
欧州の言語に対して日本国内で編纂された最初の辞書は『日葡辞書』(にっぽじしょ)と呼ばれている。1603年に完成しており、ポルトガル語を通じて当時の日本語の発音を知ることもできる。日本語ポルトガル語辞書は日葡辞典と呼ばれることが多い。
1639年にポルトガル人追放令が出され、相前後して完成した鎖国体制において、日本人が接する主要なヨーロッパ人・ヨーロッパ言語はオランダ人・オランダ語に取って代わられた。明治以降も、日本人にとって重要なヨーロッパ言語は、近代化のモデルとした国々の言語(英語、フランス語、ドイツ語等)であり、近・現代の日本においてポルトガル語が占める位置は、クラシック音楽用語に影響を与えたイタリア語や、文学や社会思想・運動方面に影響を残したロシア語に比べても、相対的に低いものであったといわざるを得ない。まとまった数の日本人がポルトガル語と深く接する機会は、むしろ日本の外、ブラジルへの移民を通じてであったといえる。第二次世界大戦後も基本的に状況は変わらず、ポルトガル語起源の外来語も音楽関係(サンバ、ボサノバ、ファド等)他少数にとどまった。
日本および日本人とポルトガル語の関係をめぐる状況が大きく変化するのは1980年代以降である。この時期から日系ブラジル人の「出稼ぎ」を機にブラジル国籍の人口が増加し(とくに1990年の出入国管理法改正がこの傾向を促進した)、2004年現在ブラジル国籍の外国人登録者数は286,557人に達している(法務省入国管理局統計による[1])。この数字を機械的にあてはめれば、現在の日本社会には、バイリンガルも含めたポルトガル語の使用者が30万人近く存在していることになり、先に述べた「南蛮・キリシタンの時代」以来の、ポルトガル語との濃密な接触の状況が発生しているといえる。これが日本社会の「多言語・多文化」状況や日本語そのものにどのような影響を与えるかはいまだ未知数であるが、今後の推移が注目される(ブラジル系住民を多く抱える関東地方及び東海・中京地方のいくつかの地方自治体では、既にポルトガル語は住民サービスに不可欠の言語のひとつとなっている)。
その他、Jリーグの発足等を機にサッカーが日本の国民的スポーツとして定着するにともない、強豪国ブラジルのサッカーにまつわる単語(ミサンガ等)が取り入れられ、またチーム名がポルトガル語をもとにして命名される例があらわれた(東京ヴェルディ1969やジュビロ磐田等)。また、1992年に放送されたNHKの大河ドラマ「信長 KING OF ZIPANGU」では、宣教師ルイス・フロイスに扮したナレーターが、毎回のナレーションの締めくくりにポルトガル語で挨拶を行い、話題になった。

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